ブラームス クラリネット五重奏曲 解説

第1楽章:アレグロ イ長調 4/4拍子、ソナタ形式第2楽章:ラルゲット ニ長調 3/4拍子、三部形式第3楽章:メヌエット イ長調 3/4拍子 - トリオⅠ イ短調 - トリオⅡ イ長調第4楽章:アレグレット イ長調 4/4拍子、変奏曲形式

ブラームス クラリネット五重奏曲ロ短調作品115 . 僕はウィーンという土地が好きであって何度も訪れ滞在しているが、それはモーツァルトの「気」を感じたいからであって、信長の安土城址となんら変わりない。ウィーンそのものに執着はなく、むしろモーツァルトをいじめておいて後でカネになると利用する商魂には近づきたくない人間だ。ムジークフェライン(芸術家協会)の会長さんやウィーンフィルの団員さんと会食したりもしたが、まあ京都みたいなもんだなと思った。伝統で食える街とはそよろしゅうんなものだ。皆さん音楽はお仕事だし名誉や金銭にも立派にご関心があって、金融マンの立場でお会いすればそういうアングルからものが見えてしまう。終楽章コーダで冒頭主題がひっそりと回帰して音楽が淀む部分はいつ聴いてもつらい。悲しいからである。自分に何らの悲劇が起こったわけでもない。音楽にストーリーやテクストがあるわけでもない。それでいて、ただただ抽象的に、悲しい。こんな感情を引き起こすものが世の中にまたと有るとは到底信じがたい。あなたが何かもの(物体)を見たり触ったりして、その行為だけによって泣くということを信じられるだろうか。同じことだ。音(音波)を聞いてどうしてそうなる道理があるだろう。我が国の古いクラシック好きにはウィーンときくと思考停止する傾向があって(そんなのは日本だけだが)、ゆかりの曲ならまずはウィーンフィルとなる。先方様もそれがいい商売になることをご存じである。日本人は旦那さんなのだ。あのオケ全員がウィーン人なんてことはなくてハンガリー、チェコの人も多い。舞妓ちゃんに京都っ子がいないと似てそこで仕込んだ芸こそ伝統ということになっていて、旦那の日本人は「よろしゅうおたの申します」でいちころだ。COPYRIGHT ©︎ 2020 Sonar Members Club.一つだけ似た効果を及ぼす音楽がある。J.S.バッハのマタイ受難曲である。僕はいまのところあの曲を畏敬しながらもどこか敬遠もしているのだが、ブラームスのこの曲も、それと似た気持ちで遠ざかってしまっていたのである。だからこの曲は僕が好きであり、かつ楽譜を見たことのない唯一の曲である。見たくない。見てしまうと嫌いになるかもしれないと思うからだ。なんとなく、「僕が見てはいけないもの」を秘めている気がする。とすると僕はやっと作品120のクラリネット・ソナタがわかる年になったのだ。これをモーツァルトの同じ編成の曲より先に書いてしまうのはやや抵抗があったが、今日これを聴いてしまったので仕方ない。これはロンドンで毎日ブラームスばかり聴いていた頃があって、4番と一緒で日課のように家中に響いていた曲だ。ところがそれ以来、あまり進んで耳にしようとは思わなくなっていた時期もある。2014 MAR 23 1:01:40 am by 東 賢太郎ブラームスは何を想ってこの曲を書いたのだろう。それを伝えるものはない。モーツァルトがクラリネット奏者シュタートラーに触発されて五重奏曲を書いたことが胸にあったかもしれない。しかし、ブラームスの場合はそれとは違う動機があったかもしれない。これはまったく僕の空想であるが、この音楽のすべては強く女性を暗示しているように聴こえる。ニ長調の並行調であるロ短調を主調とするこの五重奏曲はクラリネットの質感(クオリア、これも赤色系の暖色だ)によってオレンジ色が増幅されて感じる。それがこの曲特有の粘着質のコード・プログレッションのクオリアを増幅して、こちらの気分と体調によっては誠に強い効果を及ぼしてくる。第2楽章はところどころで鳥肌が立っては消え、平静な鑑賞ということがかなわないことがある。その音というものが何を心に喚起するか。例えば、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番第3楽章のある部分で僕は幽体離脱を思い浮かべる。同25番の第2楽章のある部分は振り上げた腕が見え、それと同じものがプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番の第3楽章のある部分にも見える。春の祭典の第2部の序奏のバスドラムが入るところではマグマのような光る熱い巨大な岩の塊がぷすぷすとガスを吹きながら崩れていく光景が見える。弦チェレの第3楽章では光のない真っ暗闇の宇宙空間を飛ぶ夜光虫の群れが見える。どれも、そんな感じという程度ではなく、はっきりと「見える」。ブラームスはウィーンに住んだし大学で教えたしお墓もある。しかしクラリネットは原型がフランスの楽器でミュールフェルトはマイニンゲン宮廷楽団の首席クラリネット奏者だ。クラリネット五重奏曲はバート・イシュルで作曲され、非公開初演はマイニンゲンの宮廷だし公開初演はベルリンだった。私見では生涯独身のブラームスにとってウィーンは日常生活の場であって、彼が作曲のインスピレーションを得たのはイタリア、ザルツカンマーグート、スイスの非日常の中だったと確信する。そのひとつ、3年のあいだ近郊に住んだヴィースバーデンの森を歩いていて僕はいつもそう感じた。この曲はウィーン風演奏が讃美され僕も長らくそう思っていた。しかしブラームスはこの五重奏がウィーンで称賛の嵐となると「三重奏の方が好きだ」と逃げている。なぜだろう?ウィーンの人たちがこれを好んだのは事実だ、しかしそれの何が悪いんだろう?彼は元来皮肉屋でシャイなひねくれ者だが、単にそれが原因だったのだろうか。音楽をどう聴くかは各人各様だ。僕は恐らく非文学的な脈絡で聴いている。だから劇や情景描写と結びついたオペラや交響詩はあまり近寄っていないし、バレエも音楽しか関心はない。春の祭典のように10代で暗記した曲でも標題は頭に入らず、今でも「祖先の儀式」がどの部分なのか知らない。僕が感応するのは100%「音」だけである。第4交響曲と同じ変奏曲の終楽章。それを静かに閉じる冒頭のテーマ。あれは何なのだろう。僕は彼の年齢を一つ越えてしまった。1891年作曲のクラリネット五重奏曲では、第3交響曲では濃厚に現れ、第4交響曲(1885年)では周到に回避され隠蔽されたロマン的情動への明白な回帰がある。前者はヴィースバーデンで惚れてしまったヘルミネ・シュピースへの感情であり、こちらは何だったかはどの文献でも明らかでない。ミュールフェルトの演奏が何かを触発し、第2楽章で爆発し、ハンガリー舞曲で試みたジプシー音楽への接近すら感じさせるのに。僕の色覚が他の人と共有されていないのであくまで自分が知っている色としての話になるが、レ(D)の音(これをブラームスのヴァイオリン協奏曲の出だしの音と覚えている)はオレンジ色、 ミ♭(E♭)の音(これをシューマンのラインの始めの音と覚えている)は青緑色のような気がする。こういうのを共感覚と呼ぶらしいが、12音のうちこの2音しかないからそういうものではないだろう。ただニ長調、変ホ長調にはその色がついて見える。そういうものの裏にあったもの、深層心理に沈んでいたもの、それが公衆に知れてしまうのを彼は恐れたのではないか。ラヴェルが「亡き王女のためのパヴァ―ヌ」が評判になってあわてて隠した何物かのように・・・。ブラームス博士もなにかの情動に操られ、それを自覚し、それを隠しながら生きたのかもしれないと思う。その人間味こそ彼の本性であり、魅力の源泉であり、彼の音楽はそれの吐露と隠そうとする仮面の相克だと僕は思っている。ブラームスがこれを書いたのは58歳になってである。その前年に弦楽五重奏曲作品111を完成したが創作力の限界を痛切に感じ、持ち物を整理して遺書を書くまでになっていた。そこで出会ったのがマイニンゲン宮廷楽団のクラリネット奏者ミュールフェルトだった。彼の演奏に魅せられたブラームスはクラリネット三重奏曲、2つのソナタ、そしてこの曲を書いた。東大法学部卒、ペンシルベニア大学経営学修士。31年のサラリーマン生活を経て2010年にソナー・アドバイザーズ(株)を設立。現在に至る。

ブラームスは、ミュールフェルトによるウェーバー『クラリネット協奏曲 第1番』やモーツァルト『クラリネット五重奏曲』などの演奏を聴いて、その高い演奏技巧や特色ある音色に感銘を受けた。

2014 MAR 23 1:01:40 am by 東 賢太郎. 3部構成のリート形式による緩徐楽章。クラリネットが奏でる、虚飾を取り去った、夢見るようなときに苦みばしった旋律(譜例2)は、多くの識者により真の「愛の歌」と評されており、それを弦部がコン・ソルディーノで支え、包み込む。第一部は、クラリネットによってシンプルに奏される主要主題が、哀切と親愛のこもった調子によるドルチェで歌われ豊かに展開されていく。第一部の中間では主要主題を逆行的に処理した副次主題が挿入される。中間部のロ短調ピウ・レントの挿句(52小節目から87小節目)は主要主題を使用してはいるが色彩をやや異にし、クラリネットがアリア的にまたレチタティーヴォ的に、ときに優雅にときに澄みきった叙情をたたえさらには悲愴な抑揚も交えて装飾音型をつないでいき、弦部がトレモロを響かせる。この挿句のジプシー風の性格は、長いパッセージと、8分音符による急なアラベスクによりいくどとなく強調される。ここでは細かな装飾音の多用と、名実ともにこの楽章の独奏楽器たるクラリネットのヴィルトゥオーゾ的表現力やラプソディックな奏法によってもたらされる極度の緊張感とが特に目を引く。第一部の再現(88小節目から)は第一部に沿ったものだが、クラリネットが第1ヴァイオリンと親密な対話を行う点は大きく異なる。自由な雰囲気のコーダがこのきわめて個性的な、まさにブラームス的創作技法の極致とも言うべきアダージョ楽章を締めくくる。 ヨハネス・ブラームスのクラリネット五重奏曲 ロ短調 作品115は、彼の晩年に完成された、ブラームスを代表する室内楽曲の1つである。