交響曲第103番「太鼓連打」 6. 交響曲第100番「軍隊」 3. 交響曲については、1番から104番までの通常使われている番号を採用しています。後から研究家ホーボーケンによってリストに加えられた107番、108番はフィルハーモニア版の表記に従って“A”、“B”とし、105番は協奏交響曲としました。
ハイドン:・交響曲第94番『驚愕』、第100番『軍隊』、第101番『時計』ロイヤ… コンビニ受け取り送料無料! Pontaポイント使えます! | 【中古:盤質AB】 ハイドン:交響曲第94番≪驚愕≫、100番≪軍隊≫101番≪時計≫ コリン・ディヴィス | ハイドン(1732-1809) | 国内盤 | CD | … ハイドンは古典派を代表する有名作曲家です。数多くの曲を作曲し、特に交響曲と弦楽四重奏を多く作ったことから「交響曲の父」「弦楽四重奏の父」と呼ばれています。今回はそんなハイドンについて彼の生涯とその最も有名な14曲についてご紹介していきます。 クラウス:フルートと弦楽のための五重奏曲ニ長調 VB.188 ディッタースドルフ:ヴィオラとヴィオローネのための二重奏曲変ホ長調 Kr.219 ハイドン:交響曲第94番ト長調 Hob.I:94『驚愕』(ザロモン編曲、フルートと弦楽版) ナイト・ミュージック ハイドンの交響曲の変遷を理解するために個人的に作成した基本データ。主としてゲルラッハによる年代研究にもとづき、中野博詞による5時代の分類にあてはめました。編成は主としてウェブスター/フェーダー編のグローブ事典の作品表に基づいています(※注)広く使われているランドン版の楽譜では、FgやTimpなどが追加されていることがあります。2002-10-23に編成データの誤りをいくつか訂正しましたので、それ以前に印刷利用などされている方はご注意ください。ハイドンの初期交響曲は、大きくモルツィン伯爵家時代とエステルハージ家副楽長時代に分けられます。これらは年代確定が難しく、研究によっては異なる作曲年代、順序が示されていることがあるので、おおまかな分類として捉えてください。モーツァルトと違って、初期でもかなり様々な様式が用いられています。楽章のテンポ構造を1957/58年にモルツィン伯爵の音楽監督に就任したハイドンが、この期間にいくつの交響曲を作曲したかははっきりしない。フェーダー、ランドンらはフュールンベルク・コレクションに含まれる15曲のうち、Hob.I-60を除く14曲はおそらくこの時期と推定している。一方、ゲルラッハの年代研究では、33番も少し後の時期とされ、逆に17、25番がこの時期に含められている。表はおおむねゲルラッハに基づいて作成した。なおホグウッド版の全集は、第1巻(c.1757-60)を「モルツィン伯爵のための交響曲」と題し、1, 2, 4, 5, 10, 11, 18, 27, 32, 37, 107を含めている。同第2巻(c.1760-63)は「ウィーンからエステルハージ家へ」として3, 14, 15, 17, 19, 20, 25, 33, 36, 108が含まれ、時期の特定は難しいがモルツィン伯爵のための作品とはかなり様式が異なることを指摘している。ヘンレ社から刊行中のハイドン研究所による新全集では、第1巻(1757-1760/61)が1, 37, 18, 2, 4, 27, 10, 20, 17, 19, 107, 25, 11, 5, 32番で、ここでの分類の3, 15以前のものと一致している。楽章のテンポ構造をC.F.ポールの研究では、1762年7月1日時点でのエステルハージ家オーケストラの編成は「Vn:5; Vc:1; Cb:1; Fl:1; Ob:2; Fg:2; Hr:2」を正式団員としていたと伝えられる。この時期ハイドンは、「前古典派とバロックのさまざまな様式を模倣しながら、独自の交響曲様式をうちたてようとする」[中野2002]。新ハイドン全集では、第2巻(1761-65)が3, 14-16, 33, 34, 36, 39, 72, 108番、第3巻(1761 bis 63)が6-9, 40, 12, 13、第4巻(1764,65)が21-24, 28-31番となって、3, 15を除きこの時期に相当する。エステルハージ家楽長に昇進するこの時期は、一般にはドイツの文学運動の「シュトルム・ウント・ドランク」と結びつけて捉えられ、強い感情表出と意欲的な実験の時代として位置づけられます(この文学運動は1770年代後半の動きで、時期的にも直接の関連はないはずですが、便利な呼称なので慣用に従います。中野の分類ではこの名称は用いていません)。中野が「バロック様式の同化」と呼ぶように、バロックの対位法的な書法が積極的に導入されます。また、オペラ劇場などを備えたエステルハーザ城の完成もあり、劇場音楽、教会音楽の要素が交響曲にも取り込まれてきます。楽章のテンポ構造をC.F.ポールによれば、この時期のエステルハージ家オーケストラの編成は通常「Vn:4/6; Va:2; Vc:1; Cb:2; Fl:1; Ob:2; Fg:2; Hr:4」で、必要に応じて「Tp:2; Timp」が加わっていた。新ハイドン全集では、第5a巻(1766-69)が26, 38, 41, 48, 58, 59, 65番、第5b巻(1770-74)が43, 44, 51, 52, 60, 64番およびHob Ia:1 mit Menuett/Finale in C、第6巻(1767-72)が35, 49, 42, 45-47番となって、50, 60番の時期が入れ替わっていることを除きこの時期に相当する。「シュトルム・ウント・ドランク」と「パリ交響曲」の間に位置するこの時期は、親しみやすい旋律と簡潔な和声による“聴衆受けする”交響曲が書かれています。侯爵や聴衆からの圧力と共に、1776年頃からエステルハーザ城でのオペラ活動が本格化したこと、ハイドンの楽譜が広範に普及し、ハイドンもより広い聴衆を獲得する意欲をもったことなどが関係すると指摘されています。楽章のテンポ構造をこの時期のエステルハージ家オーケストラの編成は、13~25人の間を行き来しており、年ごとの移動が激しい。管楽器の構成は第2期と大きく違わないが、中野の記述によれば、1776年に初めて正式にFlが一人加わり、Obが2~3、Hrは1775に4人、後に5人となる。Fgは2~4、Tpは1780/81の間だけ雇われている。交響曲には使用されていないが、1775から2年あまりClが2人加わっていたという。新ハイドン全集では、第7巻(1773,74)が50, 54-57番、第8巻(1775/76)が66-69, 61番、第9巻(1777-79)が53, 63, 70, 71, 75番およびHob Ia:7、第10巻(1780/81)が62, 73, 74番およびHob Ia:4、第11巻(1782-84)が76-81番となって、50, 60番の時期が入れ替わっていることを除き、巻ごとの年代順も含めこの時期に一致する。「パリ交響曲」と呼ばれる82~87番はコンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピックの依頼で、88,89番はP.トストのために、90~92番はドニィ伯爵の依頼で、いずれもパリでの上演のために書かれました。パリの優れた大規模なオーケストラと聴衆の趣味を念頭に置き、第2期で試みられた対位法的書法と第3期の“聴衆受けする”美しさが融合され、古典的な完成と呼ぶにふさわしい作品が生まれています。楽章のテンポ構造を新ハイドン全集では、第12巻が87, 85, 83 番、第13巻が84, 86, 82番、第14巻が88-92番となる。1790年のニコラウス・エステルハージ侯爵の死去により、ハイドンの音楽生活は一変する。ザロモンの招きによって1791年1月にロンドンに到着したハイドンは、92年までに93~98番の6曲を作曲。いったんウィーンにもどったあと再び1794年にロンドンに登場し、99~104番を書いています。ロンドンでは入場料を払って演奏会場にやってくる聴衆や、新聞による音楽批評など、これまで以上に多様な聴衆の反応がダイレクトに返ってきました。さらに大きな編成のオーケストラにより、一層豊かな響きを追求することができました。楽章のテンポ構造をC.F.ポールによれば、ザロモンのオーケストラは32~27人の弦楽器に管とティンパニが加わって、およそ40人であったと伝えられる。また、オペラ・コンサートのオーケストラは、ランドンによれば60人の大編成で木管はクラリネットを含め各4本であったと言われる。105番とも呼ばれる新ハイドン全集では、第15巻が93, 95, 96番、第16巻が98, 94, 97番、第17巻が99-101番、第18巻が102-104番となる。※入力ミスなどによる誤りが含まれる可能性があります。年月(日)は