十字架 の道行き 英語
教会が建造される前までは、同地に横倒しになっていた二本の石柱を留の目印にしていた。その破片は現在、教会内の手すりの支柱に転用されている。教会の正面と礼拝堂には十字架を背負って倒れこむイエスのモニュメントが置かれている。また、教会内部には各時代の考古学的な資料を集めた博物館も併設されている。石棺のある部屋では合計43本のろうそくが昼夜灯されている。43本の内訳はカトリック教会が13本、ギリシア正教会が13本、アルメニア使徒教会が13本、コプト正教会が4本である。石棺には大理石で蓋がされている。この蓋には三つの突起があるのだが、この突起はイエスが死後三日目に復活したという出来事にちなんでいる。また、キリスト教徒の一部は第14留にてイエスの復活が成し遂げられたことから、同じこの場所を第15留と定め、ヴィア・ドロローサの真の終着点と位置づけている。第8留にまつわる後代の伝承は、19世紀の中期に同留の場所が確定するに到るまで、幾度となく改変されている。この場所はゴルゴダの丘に非常に近いのだが、聖カラランボス教会に進路を塞がれているため、第9留に向かうには一旦スークへ戻る必要がある。ステンドグラスには十字架を背負って苦痛に苛まれるイエス、手を洗うピラト、拷問具を掴む天使が描かれている。モザイク張りの床の西側には切り石が敷かれているのだが、これは「リソストラトス(Lithostratos)」と呼ばれるシオン女子修道院へと続く通路の一部である。リソストラトスの語義は「石で舗装された場所」となる。つまり、『ヨハネによる福音書』において、ピラトが最終的にイエスを有罪と定めて民衆に引き渡したとされる「敷石」という場所と見なされている。第12留はゴルゴダの丘の左側に設置されており、そこでイエスが息を引き取ったことを物語っている。現在はギリシア正教会の管理下にあり、祭壇の足元には十字架が立てられたとされるくぼみのある場所を厳密に示すために銀製の円形プレートが置かれている。また、イエスと共にふたりの犯罪人が十字架に掛けられたとされる場所(祭壇の両脇)には黒いプレートが置かれている。巡礼者の多くは長時間ここで足を止めるのだが、それはゴルゴタの丘の岩盤が露出しているくぼみの箇所を直に触れることができるからである。この岩盤には、イエスが死んだ際に発生した地震によってできたとされる亀裂が走っている。「聖墳墓教会」という名称はイエスの死を悼んだカトリック教会による呼び名であり、正教会ではむしろイエスの復活に重点が置かれ「復活の教会」と呼ばれていたことに留意しなければならない。近年、カトリック教会の中でもイエスの復活に重点を置く傾向もあり、それを記念して第15留が加えられることもある。ただし、上述のように第14留が第15留を兼ねるという形になる。その間、幾度かのルート変更があったのだが、ルートが変わるごとにいくつかの留も変更を余儀なくされた。もっとも、留の多くは新約聖書の記述ではなく、後代に誕生した伝承に基づいて選定されたものである。第4留を過ぎたところでヴィア・ドロローサは再び西へと向きを変える(右折する)。ここからゴルゴダの丘へと向かうヴィア・ドロローサ通り(タリク・アル=サリ通り)の階段状の緩やかな上り坂を登るのだが、その交差点の傍ら(南側)に、イエスに代わって十字架を担いだキレネ人シモンを記念する第5留がある。キリスト教では伝統的にイエスがローマ兵に鞭で撃たれた場所の上に鞭打ちの教会が建てられたことになっている。この建造物もいくつかの遍歴を辿っており、かつては馬小屋や紡績工場として使用されていた。1906年、総督ピラトの官邸があったとするギリシア正教会の修道士の伝承に基づいて第2留の近くに教会が建てられた。イエスの牢屋とされる一室は教会内の地下にあるのだが、別の一室はバラバの牢屋であると言われている。一部の研究者はその可能性を否定できないと報告している。「法廷の門」を背後にしていることから、イエスの時代、この場所はエルサレムの城壁外にあった。よって、イエスの苦難を見て嘆き悲しむ婦人たちとの間のエピソードは野道で行われたことになる。第14留はふたつの部屋に分けられている。ひとつは礼拝施設がある部屋で、もうひとつは石棺が置かれている部屋である。礼拝施設の両脇にはギリシア正教の過越祭にて火を灯すためのふたつの穴が開けられている。また、部屋の中には墓穴の蓋に用いられたとされる円形の石の一部が保管されている。第10留は聖墳墓教会に隣接しているものの、唯一建物の外部に独立した聖堂が置かれている。階段を上った聖堂からは、教会の二階にある第11留を見ることができる。この留は、イエスの衣服をくじで分け合ったとされるローマ兵の逸話に由来している。また、神殿の至聖所と外界を隔てる垂れ幕が裂けたという出来事は、キリスト教徒にとっては神の加護がユダヤ人だけでなく全人類に向けられたことの証と見なされている。それはまた、イエスという至上の生贄を捧げたのを最後に、祭司階級による神事、とりわけ燔祭などに代表される生贄に依存した信仰が終焉したことの象徴とも解釈されている。福音書では物語の序盤、ヨルダン川での洗礼において天からの声によってイエスの神性が宣言されているのだが、物語の終盤、十字架が地に立てられている場面では異教徒であるローマ兵の口からイエスの神性についての告白が見られる。この出来事は、のちにイエスに対する信仰がユダヤ人にではなくローマ兵に代表される異邦人に担わされる先鞭をつけたといえよう。第13留がフランシスコ会によって正式に認定されたのは他の留に比べて遅かったようで、それ以前は、イエスの遺体が十字架から降ろされた後に「塗油の石(Anointing Stone)」と呼ばれる石の上に横たえられて埋葬処置を施されたという出来事が第13留の主題であった。「塗油の石」は聖墳墓教会に入った正面にあるゴルゴタの丘のふもとに置かれている。とはいえ、考古学者の一致した見解によれば、この敷石は第二神殿時代のものではなく、2世紀以降に建造されたアエリア・カピトリーナの遺物と見られている。屋外の各留にはエルサレム市によって二種類の目印が提供されている。ひとつは、留の近くの壁に貼られている円形の金属製プレートで、もうひとつは半円状に並べられた灰色の敷石である。各留にある教会等の施設は概ね9:00~12:30と14:00~17:00が営業時間となっている。スークを南進すると、西へ向かう上り階段の通路が右側に見える。その通路の奥にコプト正教会のエルサレム総主教座の置かれた聖アンソニー教会があるのだが、施設の外壁を支える柱のひとつが第9留のシンボルである。第9留は、この場所でイエスが三度目に倒れたとする伝承に基づいて設置されている。これも福音書には記録されていないエピソードである。キリスト教の伝承では、この場所で母マリアが生まれたとされている。また、敷地内にある溜池は、『ヨハネによる福音書』にてイエスが病人を癒したと場所として記録されている「ベトザタの池」と見なされている。