異世界かるてっと2 第11話観た。慎重勇者のふたりが唐突に登場!もっと出番あっても!それにしても異世界転生主人公組は仲いいというか息ぴったりというか、特にターニャとアインズさんは元日本人おっさんとしてお約束よく分かってる感じが 坂元裕二『カルテット』4話 - 青春ゾンビ. @orz_poke 2020-03-25 00:30:21. たしかに表現がわかりやすいな…とは思いましたが、しかし毎回すばらしい考察です! 坂元裕二『カルテット』6話 - 青春ゾンビ
いよいよ3月14日にカルテット9話、最終章前編 が放送されます。坂本美雨さんの出演もニュースになっています。ツイッターでは今までの放送の考察、今後の展開のいろい...物語が急展開したこの放送回を見た有名人の感想は?
おつかれさまでした! yulily100 : 2017/03/23 14:53:15. 怖い方のゾンビの話かと思って読んだら全然違った(笑)恋をしたことがない漫画家が主人公の恋愛ものだった。 『カルテット時間軸ズレてる問題』は、なかった。との発表ですが、なぜこのような発表をしなくてはいけなくなったのかは、このまとめを見ればわかります。
適切な情報に変更.
満島ひかりさんが放送5分前をお知らせします!
AIO
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@oddperson01 2020-03-25 00:43:33. その同じ夢のほうを向いていれば 向き合って嫌なとこみてぶつかることもないので 『カルテット』というドラマは、そのモチーフに”ドーナッツ”を据えている。であるから、物語はその穴の周りをなぞりながら円を循環し、元の地点(1話)に舞い戻ることになるのだ。離散してバラバラになっているかと思われたカルテットメンバーは、いなくなるのって、消えることじゃないですよかつて真紀(これまでの『カルテット』の世界との差異をより鮮明なものにしていくのは、不在そのものでなく、繰り返される1話の様々なシークエンスの反復によってである。別府がミニ真紀を再び迎え入れるまでシークエンスの見事さは、この最終話における白眉と言えよう。再会の場面における、日が落ちた団地に風に揺れる木々が影を映し出す、という画作りの強さ。『カルテット』という作品の映像感度の高さも、脚本の強度と同様に書き記しておきたい要素だ。洗濯物を干す、引き戸の開け閉め、走る、降りる、転ぶ、といったごく小さなアクションが、イメージとの連なりでもって、”活劇“とすら呼びたい興奮をもたらしている。少し振り返ってみよう。真紀がベランダで洗濯物を干す。一足の靴下には穴が空いており、真紀の脳裏には無意識に、”欠けた”仲間たちがよぎったことだろう。すると不思議なことにその仲間達が奏でる音色が聞こえる気がする。そんなはずあるわけないのに。そういったボンヤリとした思考も、けたたましい洗濯機の騒音が、すぐさまかき消してしまう。真紀は気のせいだろうな、と引き戸を閉める。暴れ回る洗濯機、嫌がらせ行為のこれまたけたたましいノック音、そういったノイズから逃れる為、部屋に戻った真紀はイヤフォンで耳を塞いでしまう。ここで真紀は仲間の音色と完全に分断されてしまう。しかし、そこに風が吹く。風はベランダに干された洗濯物を揺らす。真紀は慌ててベランダに戻り洗濯物を仕舞おうとする。ここで再び扉が開かれ、音色が彼女の耳を揺らすことになる。洗濯終了の合図音がそれを阻害しようとするが、煙であり、つまり流動体であるトリオの演奏は風に乗り、今度ははっきりと真紀の耳を捉える(君の部屋までも届く)。居ても立っても居られなくなった真紀はサンダルつっかけで部屋を飛び出し、階段を駆け下り、その音の鳴る方へ。急ぐあまりに転んでしまうほどの走りをみせる。この”転倒”がどうにも感動的だ。何度も繰り返し転んでみせたカルテットメンバーの中において、これまで真紀だけが一度も転んでこなかった。”転ばないこと”(=しくじらないように慎重になること)が、世を偽って生きる彼女の絶対に守らねばならぬルール、もしくは”呪い”のようなものであったからだ。つまり、あの転倒は、そういった呪縛から解放された”走り”なのである。そんな走りの先にいるのは、彼女の世界そのものを変容させてしまう、並行世界のモチーフは意外なところにも潜んでいる。それは世の中に優れた音楽が生まれる過程でできた余計なもの。みなさんの音楽は、煙突から出た煙のようなものです。価値もない。意味もない。必要ない。記憶にも残らない。私は不思議に思いました。この人たち煙のくせに何のためにやってるんだろう。早く辞めてしまえばいいのに。私は5年前に奏者を辞めました。自分が煙であることにいち早く気づいたからです。自分のしていることの愚かさに気づきすっぱりと辞めました。正しい選択でした。本日またお店を訪ねたのはみなさんに直接お聞きしたかったからです。どうして辞めないでんですか?煙の分際で、続けることに一体何の意味があるんだろう?この疑問はこの一年間ずっと私の頭から離れません。教えてください。価値はあると思いますか?意味はあると思いますか?将来があると思いますか?なぜ続けるんですか?なぜ辞めないんですか?なぜ?教えてください。お願いします。この匿名の手紙への回答は、コンサートにおけるカルテットの演奏で返される。1話に登場し、スーパーマーケットでの「すずめ「あ、でも、外で弾いててそして、手紙の送り主である”並行世界の自分”にも届いてしまったに違いない。煙突の煙のようなもの、つまりは流動体であるカルテットの演奏だからこそ、シームレスに階層を超え、本来交わるはずのない世界のあの子の元に、音が、想いが届く。離れ離れになってしまった真紀の部屋のベランダに届いたように。どんなに隔たれていようとも、どんな形であろうとも、届く人には届く。”人と人はわかりあえない”という諦観の元に、徹底的なまでのすれ違いを描いてきた欠点と嘘で結ばれたカルテットが、その”負債”を逆手にとり、たくさんのお客をホールに集めていく反転は、実に美しく感動的だ。しかし、問題は真紀とすすめの控え室でのやりとりだろう。すずめ「真紀さん。一曲目って、わざとこの曲にしたんですか?」いかようにも解釈のできるこの謎の残し方である。ここですすめが指摘しているのは「死と乙女」という楽曲の持つ”死”のイメージが、執行猶予中の真紀につきまとう疑い(義父の殺害)を色濃いものにしていしまうのでは?ということだろう。しかし、対する真紀の「零れたのかなぁ」という返しはどうだろう。とても主語が”殺意”であるとは思えない。劇中使用楽曲のバックボーンについては基本的には触れないと宣言しておきながらも、抗えず病の床に伏す乙女と、死神の対話を描いた作品。乙女は”死”を拒否し、死神に去ってくれと懇願するが、死神は、乙女に「私はおまえを苦しめるために来たのではない。お前に安息を与えに来たのだ」と語りかける。ここでの”死”は、恐ろしい苦痛ではなく、永遠の安息として描かれている。“死”を安息として表現した楽曲とのことである。これまた様々な解釈が可能だと思うのだけども、私は、真紀の黒髪に混じった白髪(グレー)やストレスで荒れたしまった手を想う。匿名による無数のバッシングに疲弊し、自ら”死”を望んだこともあった(でも、今は”みんな”がいる)という真紀の告白(零れた想い)なのではないか。しかし、そういった謎解きは意味をなさない。重要なのは、「信じて欲しい」という真紀の言葉であるし、秘密を守ることだ。そして、何よりも再びたくさん眠るようになったすずめが、夢から目を覚ます。ふと、あの夢のような充実感を覚えたコンサートも”夢”だったのではないかという疑念がよぎる。しかし、1枚の写真が確かにあのコンサートの現実を保証している。夢じゃなかった、と安堵の表情を浮かべるすずめ。この質感はまさに『夢だけど 夢じゃなかったではないか。最後までそして、センキューパセリである。どう考えても、”唐揚げにレモン”と比べると、キレがないし、無理がある。それでも、ねぇねぇ君たちこの子たち言ってるよねー食べても食べなくてもいいのこのドラマにおいて、本当に大切なことはいつも家森の口から冗談のようにして語られる。1話のはじまりを思い出したい。誰からも耳を傾けられないにも関わらず、路上で演奏するすずめだ。社会と上手に接続できない名も無き人々は、「わたしたちはここにいます」と叫んでいる。そのか細く小さな”ボイス”に耳をすましてみよう。このドラマは、真紀の聞き返してしまうほどの小さな声に耳をすますことから始まったはずだ。その散り散りになったボイスが集まり、交じり合い、調和がとれたその時、それは人々を躍らせる音楽となることだろう。物語の締め方がいい。スクリーンプロセス撮影の車内で主題歌を歌い狂うシーンも出色だ< 親子でしょ? という岩瀬純(前田旺志郎)の屈託のない問いかけが、世吹すずめ(満島ひかり)に纏わりつく... 続きを表示 親子でしょ? TBSドラマ カルテット7話が放送されました。なぜ、すずめ(満島ひかり)は縛られていたのか、なぜ、有朱(吉岡里帆)が別荘へ来たのか?真紀(松たか子)・幹生(宮藤...