.「塩」「光」、それはまさにイエス様の自己犠牲の人生そのものであったわけです。「あなたは既にそうなんだ!」という意味合いも読み取れますし、理想をあえて現実のものとして表現し強烈に「どうしてもそうなりなさい!」と求めているとも読み取ることが出来るでしょう。 皆さんもサレジオ学院で6年間過ごし、ドンボスコの精神やキリスト教にふれるなかで、すでに「塩」「光」という存在になっています。その気持ちで皆さんにこの言葉を贈ります。世界を見渡すとそこには分裂、闇、憎しみ、悲しみが多くあります。多くの人が傷ついています。世界は塩であり光である皆さんを待ち望んでいます。 皆さんは本当の意味でのグローバル人材です。その使命をすでに持っているのです。その時の羅針盤としてこの塩と光があればと願っています。 卒業おめでとうございます。 「地の塩」も「世の光」も決して自分のためになるものではありません。どちらかと言うと、人々のため、人々の幸せ、平安のために奉仕する役割と言ってもいいでしょう。言い換えれば、私たち一人ひとりに与えられた【召命】なのかもしれません。私たちは、おん父から頂いた【召命】の恵 料理をする時に、塩は欠かせないと言ってもいいでしょう。ちょっと塩を足すことで、味が変わってきますし、素材の旨味を引き出すこともできます。逆に塩を入れすぎると、せっかくの料理が食べられなくなることもあります。塩加減は、料理を作る時の大きなポイントになるのではないでしょうか。きょうのみことばは、『山上の説教』の中でイエス様が人々に、「あなた方は、『地の塩である。世の光である。』と言われる場面です。イエス様の周りに集まった人々は、貧しく、人々から蔑まれ疎んじられている人たちでした。彼らは、イエス様から癒され、今まで聴いたことがない教えを聴き、もっとイエス様の側にいたいという人々だったのです。きょうの箇所の前でイエス様は、「自分の貧しさを知る人は幸いである。」と語られたところでした。人々は、このイエス様の話に引き込まれ、イエス様に耳を傾けて行ったことでしょう。イエス様は、そのような彼らに対して「あなた方は地の塩である。」と言われます。この言葉は、彼らの心の中にどのように響いたのでしょうか。塩は、味付けだけではなく、肉や魚などを保存や、腐敗を防ぐためにも使われます。また、「塩(sal)」は、ローマ兵たちの給料としても使われていたようです。人々は、自分たちがそんなに貴重な「塩である。」と言われます。この箇所で注目したいところでイエス様は、「あなた方は、塩になりなさい。」と言ってはいません。このことは、私たち一人ひとりは、もうすでに【塩】としての恵みを頂いている、ということなのです。イエス様は、「もし塩がその持ち味を失ったなら、どうやってそれを取り戻すことができるだろうか。」と言われています。私たちは、生まれたときからおん父から「塩」としての【持ち味】を頂いているのです。それは、性格や能力や才能、個性など、その人にしかないものと言ってもいいでしょう。イエス様は、人々に「あなた方は、おん父から頂いている『塩としての持ち味を生かしてください』」と教えているのではないでしょうか。パウロは、アテネで宣教する際、彼らに福音を伝えようとありとあらゆる知恵と雄弁さを使いました。しかし、アテネの人々には、パウロの言葉が伝わらなかったのです。彼は、落ち込んだ状態でコリントに行きます。パウロは手紙の中で「……わたしの言葉も宣教も、説得力のある知恵に溢れた雄弁によるものではなく、神の霊と力を示す証明によるものでした。それは、あなた方の信仰が人間の知恵ではなく、神の力に基づくものとなるためでした。」と伝えています。たぶん、パウロは、本当に大切なものは、人間的な知恵や雄弁さではなく、「神様の霊、恵み」に信頼することを悟ったのではないでしょうか。私たちは、自分の力に頼るのではなく、神様から頂いている【塩の恵み】を精一杯使うことができたらいいですね。イエス様は、続けて「あなた方は世の光である。」と言われます。このことも、「地の塩である。」と同じように、おん父から頂いている恵みと言ってもいいでしょう。光は、部屋を明るくし、暗闇の中にポッと照らす灯りは、光の明るさだけではなく、気持も明るくするのではないでしょうか。また、光は、「希望」という意味にもとることができます。イエス様のところに集まった人たちは、いろいろな問題を抱えていた人々です。彼らにとって、「あなた方は世の光である」ということばは、「希望」という言葉すら失っていた彼らにとって、改めて「私たち自身が、光であり希望なのだ。こんな弱いく貧しい私たちも何か役に立つことがあるのだ」という気持がわいて来たのではないでしょうか。イエス様は、「……こうすれば、家にいるすべての人々のために輝く。このように、あなた方の光を人々の前に輝かしなさい」と言われます。イエス様が言われる、「家にいるすべての人のために輝く」というのは、自分の家族のためだけではなく、私たちが関わっている【すべて】という意味ではないでしょうか。私たちは、「光」という恵みを人々に伝えるという使命を頂いていると言ってもいいでしょう。では、どのようなことをすればいいのでしょう。イザヤは、「飢える人にお前のパンを分ち与え、家のない貧しい人々に宿を与え、裸を見れば、着物を着せ、お前の同胞に対して見て見ぬ振りをしないこと。」(イザヤ58・7)と伝えています。私たちは、光として特別なことをしなければというのではなく、当たり前の「善い行い」をするだけでいいのではないでしょうか。「地の塩」も「世の光」も決して自分のためになるものではありません。どちらかと言うと、人々のため、人々の幸せ、平安のために奉仕する役割と言ってもいいでしょう。言い換えれば、私たち一人ひとりに与えられた【召命】なのかもしれません。私たちは、おん父から頂いた【召命】の恵みを生かしていけたらいいですね。Copyright ©
基準の上下 が、いいでしょう。 日本語を勉強中の中国人です。お店で料理を作る人の言い方を教えていただけないでしょうか。コックさん、板前、シェフなどたくさんあるようで、区別はよくつけられません。 説教「地の塩、世の光として生きよ」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書5章13ー16節 2017年02月6日 説教集 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるよ … by ▶ 目次「あなたがたは地の塩である」イエスは弟子たちを「塩」に例えたが、この言葉は特に、イエスに従う者たちに適用されるものである。なぜ塩に例えられているのだろうか?その理由は、当時から塩が、防腐剤として、腐敗を防ぐために用いられてきたことが挙げられる。わたしたちの住む人間社会は、全体として腐敗している。この事実は、少なくとも数十年社会で生きていれば、誰でも理解できる。この状況は、イエスの生きた紀元一世紀のパレスチナにおいても、ある程度当てはまる事実であった。それで、イエスの教えに従う弟子たちは、そのように腐敗している世の中にあって、社会の腐敗を防ぐ防腐剤の役目を果たすことが期待されている。世の中には、実に様々な哲学や宗教が存在するが、イエスの教え、つまり聖書の教えほど、私たちに愛することの重要性を説くものはない。その内容は、神が、自分の独り子を捧げるほど、一人一人の人間を深く愛している、という事実である。神の愛を真に受け入れた人は、同じような愛をもって、周りの家族や友人に接することができるようになる。そのようにして、イエスに従う弟子たちは、周りの人に良い影響を与え、社会の腐敗を防ぐ役目を果たすことができるのである。一つ、興味深い実話を紹介したい。ある日本人の夫婦がいたが、妻はクリスチャンで、夫は違かった。夫はある時期から特定の女性と不倫をするようになり、その関係は十年以上に及んだ。そんなある日、その夫は、不倫相手の女性が、死亡したことを知り、葬式に呼ばれた。夫は葬式に行きたかったが、隠れて行くことができない事情があったのか、妙にそわそわしていたようである。するとそこへ、クリスチャンの妻が、夫に衝撃的な言葉を伝えた。「あなたが不倫をしていたことは、私にはずっとわかっていました。それでも、いつか気がついてくれると思って、私はそれを言いませんでした。今、あなたが不倫をしてきた女性が死んで、葬儀があることは知っています。葬儀に行って下さい。そしてそこで、しっかりとお別れをしてから、私の元に戻ってきて下さい。」夫は妻のその言葉を聞き、泣き崩れた。妻は不倫に気付いていないと思っていたが、実はずっと知っていたのである。それにも関わらず、忍耐強く、夫の反省と変化の時を待ち続けてくれた妻の心の広さに、夫は涙を流したのであった。そして彼は、この経験を通して、妻が信じている神が、本物の神であることを悟り、自分の悪行を深く悔い改めた。夫は強く心を動かされ、妻と同じように、聖書の神を信じる道を歩むようになり、後に聖職者となった。妻は、地の塩として、その立派な務めを果たしのである。イエスが宣教活動をした中心的な地域は、イスラエルのガリラヤという地域であったが、そこにはガリラヤ湖という大きな湖がある。夕暮れ時にガリラヤ湖畔に立つと、丁度町が山の上にあり、光輝いているのが見える。その景色を想像すると、イエスがどのような意味でこの言葉を語ったのかがよく理解できる。腐敗に侵された人間社会全体は、まさしく闇のようである。しかし、イエスは闇を照らす光として、世に来た。。したがって、イエスの教えに従い、イエスと同じような基準で生き、愛をもって行動するクリスチャンもまた、世の光なのである。ただし、イエスの弟子たちは、光そのものではない。弟子たちの内に生きているキリスト自身が、光となるのである。キング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア「1929年~1968年」)は、かつて米国で人種差別と果敢に戦い、差別撤廃に大きく貢献した牧師である。彼は1955年、白人に席を譲るのを拒んで逮捕されたローザ・パークス逮捕事件に抗議して、バス・ボイコット運動を指導。これにより、連邦最高裁判所からバス車内人種分離法違憲判決を勝ち取った。そしてこの事件を機に、キング牧師は全米各地で公民権運動を展開していく。キング牧師は、「非暴力主義」を活動の理念としたが、これはイエスの教えと、インド独立の父ガンジーに啓蒙されたのである。(そもそもガンジーの非暴力主義も、イエスの山上の垂訓の教えから来たものである)彼が1963年に語った有名な演説「私には夢がある(I Have a Dream)」は、広く共感を呼んだメッセージとして世界中で有名である。これらの運動によって、米国内の世論も盛り上がりを見せ、1964年には公民権法が制定された。その後キング牧師は、「ベトナム反戦運動」へ積極的に関与するようになる。敵も増えていくなか、精力的に活動を続けたが、1968年にテネシー州で「私は山頂に達した(I’ve Been to the Mountaintop)」と演説後、モーテルで白人男性の凶弾に倒れた。道半ばで亡くなってしまったとはいえ、彼が輝かせたキリストの光は、世界に大きな影響を与えた。キング牧師は、世の光として、その役目を果たしたのである。キリスト教が聖典としている聖書の教えの中心は「愛」である、ということを論じていく際に、避けて通れない論題がある。それは、なぜキリスト教は、歴史を通じて、多くの戦争を行ってきたのか?という問題である。まず、歴史的事実として、特に中世の時代以降、教会は多くの戦争に加担してきた。また、戦争以外にも、教皇の権威を用いて「異端審問」を行い、多くの人間を不当に拷問・殺害してきたことも事実である。では、なぜキリストの教えを掲げる教会が、そのような悪行に走ったのだろうか?その理由は単純である。彼らは、キリストの教えを知りそれを守ることよりも、自分たちの人間的な欲望を第一としたからである。イエスは、自身の教えの中で明確に「殺してはならない」「敵を愛しなさい」と語った。したがって、かつて戦争を行ったり、戦争に加担してきた教会は、イエスの教えを実際に守る真のクリスチャンではなかった。彼らは偽のクリスチャンだったのである。多くの日本人の感覚として、特定の宗教だけが正しいとすることを避け、周囲との「和」を重視する傾向がある。そして、ある人達は、特定の宗教を絶対化することが、宗教戦争の原因となると考える。そしてその事例として、先に挙げたキリスト教の戦争や、近年のイスラム教過激派のテロリズムなどを挙げる。しかし、先に述べたように、キリスト教が歴史的に行ってきた戦争の背景は、キリストの教えに起因するものではなく、人間的な欲望によるものであった。つまり戦争を実際に行ってきた教会や教皇は、聖書の教えを建前として利用した偽善者たちだったのである。もし彼らが、自分たちの欲望ではなく、キリストの教えを絶対化して、その教えに固く従っていたならば、今頃世界はもっと平和な場所になっていただろう。ただし、世の中の宗教の中には、危険な教えが紛れているものも数多くあるので、そこだけは注意しなければならない。例えば、サリン事件を起こしたオウム真理教は、まさにそのような教団であった。ちなみに、宗教を建前とした戦争も悪いものだが、無神論者が引き起こす戦争も、極めて残忍なものである。例えば、二十世紀の記録的な大虐殺者である、スターリン、ヒトラー、毛沢東などは、皆無神論者であった。彼らが神の存在と、死後の裁きを信じていれば、あのような大虐殺に走ることは決して無かっただろう。統計的には、これまでに起きた戦争の中で、実際にキリスト教が関係してものは、僅か2%だった、ということもわかっている。したがって、キリスト教が戦争ばかりしてきた、という理解は、全くの誤解であることがわかる。結論として、キリスト教が引き起こしたと言われているあらゆる戦争は、偽クリスチャンが関与したものであり、本物の信仰者が関与したものではなかった。※参考までに、以下の記事も挙げておく▶
地の塩、世の光 とは分かりやすく言うとどのような意味ですか??教えてください!!その質問は、なかなかむつかしいですね、マタイの5章13節の、有名な山上の垂訓から。 「汝らは地の鹽(しお)なり、鹽もし效力を失はば、何をもてか之 色即是空
>言って通じる? #6です。新規登録・ログインgooIDで新規登録・ログインおすすめ情報
男性は言うと、女らしく聞こえる日本語ってありますか? わたしたち一人一人を地の塩、世の光であると宣言されたイエスさまは、わたしたちを地の塩、世の光にするために十字架の道を歩まれました。 長沢先生のご生涯の前半56年間は、お姉さんが世の光だ、そのことを御自分の働きを通して証しされました。 #6です。 冷房の事をクーラーと言う人はいますが、暖房の事をウォーマーと言う人はいますか?
女言葉の全て。語尾の「だわ」とか「わよ」とか。「のよ」「の」も女性的に聞こえる場合があります。