シューベルトは歌曲以外にも、未公開作品や未出版作品を大量に遺したため、研究は難航した。 シューベルト自身による標題は第4番「悲劇的」(D417)の1曲だけで、他は後世によるものである。第7(8)番ロ短調交響曲「未完成」はその名の通り、完成したのは第2楽章までで、第3楽章が20小節(ピアノ・スケッチも途中まで)で終わっていることからこう呼ばれるようになった。第8(9)番の通称である「ザ・グレート」という名前はイギリスの出版社によってつけられたタイトルだと考えられているが、ドイツ語では《Die große Sinfonie C-Dur》であり、「偉大な」という意味合いはない(同じハ長調である第6番と比較して「大きい方」程度の意味)。 現在シューベルトの名が附されたコンクールは二つある。ひとつは長い伝統を持つ 1814年から1815年にかけての冬、シューベルトは詩人シューベルトの運命に最初の変化が見えた。コンヴィクト時代からの友人シュパウンの家でシューベルトの歌曲を聴いていた、法律学生1816年の作品の1つはサリエリの6月16日記念祭のための『3つの儀式用カンタータ(D407)』、もう1つの『プロメテウス・カンタータ(D451)』はハインリヒ・ヨーゼフ・ワターロート教授の生徒たちのためで、教授はシューベルトに報酬を支払った。彼は雑誌記者に「作曲で報酬を得たのは初めてだ」と語っている。もう1曲は、《教員未亡人基金》の創立者で学長ヨーゼフ・シュペンドゥのための『カンタータ(D472)』である。もっとも重要な作品は『この時期、友人の輪が次第に広がっていった。マイアーホーファーが彼に、有名なバリトン歌手フォーグル(1768 - 1840)を紹介し、フォーグルはウィーンのサロンでシューベルトの歌曲を歌った。アンゼルムとヨーゼフのヒュッテンブレンナー兄弟はシューベルトに奉仕し崇めていた。ガヒーは卓越したピアニストでシューベルトのソナタやファンタジーを演奏した。ゾンライトナー家は裕福な商人で、長男がコンヴィクトに所属していた縁もあって自宅を自由に使わせていたが、それは間もなく「シューベルティアーデ」と呼ばれ、シューベルトを称えた音楽会へと組織されていった。 ウェーバーとも生前に親交があった。1822年のウィーンでの『シューベルトはのちの作曲家に大きな影響を与えた。『大ハ長調交響曲』を発見したシューマンは言うに及ばず、特に歌曲、交響曲において彼が私的に行った夜会は、彼の名前にちなんで「1828年に出版された最後の作品は、『連弾のための大ロンドイ長調op.107(D951)』だったことから伺えるように、生前に出版された作品だけでも作品番号は100を超えている。同じ時代に、これと同数の作品を作曲できたライバルは31歳でこの膨大な量は無名の作曲家では不可能であり、作曲家としてすでに成功と考えてよいという理由から、シューベルトが本当に貧しかったのか疑問視する声もあるまた、彼の死に際して、新聞は訃報を出している。 他の未完の交響曲のうち、ホ長調D729は4楽章のピアノスケッチで完成に近く(楽譜に「Fine」と書き添えてあることから、一応は完成したとみなす音楽学者もいるしかし、国際シューベルト協会(Internationale Schubert-Gesellschaft)が1978年のドイチュ目録改訂で見直し、交響曲第7番「未完成」、第8番「大ハ長調」とされた。最近ではこれに従うことが多くなってきているが、1951年のドイチュ目録のまま交響曲第7番ホ長調D729、第8番「未完成」D759、第9番「大ハ長調」D944とされることもまだあり、さらには交響曲の同定のためにシューベルトの手紙に言及があるものの楽譜が見つからず、幻の存在とされてきた『グムンデン・ガスタイン交響曲』(Gmunden-Gasteiner Sinfonie) D849(1825年)は研究により、20世紀中葉ではハ長調D944 「ザ・グレート」を指している可能性がきわめて高いとされていた。もともとD944は1828年の作曲と考えられていたためにこのD番号を持ち、D849とは別であると考えられてきたが、この根拠となっていた楽譜の年号の記述が後世の加筆によると判明し、加筆前は1825年だったものと考えられている。このことが、「ザ・グレート=グムンデン・ガスタイン」という証拠とされてきた。 シューベルトは貧しかった。それと言うのも教師を辞めたうえ、公演で稼ぐこともできなかったからである。しかも、音楽作品をただでももらうという出版社はなかった。しかし、友人たちは真のこの年の作品には『ミサ曲(D452)』『6月14日に『双子の兄弟(D647)』が、8月19日に『魔法の竪琴(D644)』が公演された。これまで、ミサ曲を別にして彼の大きな作品はグンデルホーフでのアマチュア・オーケストラに限定されていた。それは家庭でのカルテット演奏会から育って大きくなった社交場だった。ここへきて彼はより際立った立場を得て、広く一般に接することが求められ始めた。相変わらず出版社は冷淡だったが、友人のフォーグルが1821年2月8日に舞台作品や公的な義務で忙しかったが、この数年間に時間を作って多様な作品が生み出された。『ミサ曲変イ長調(D678)』が完成。1822年に着手した絶妙な『1824年までに、前記の作品を除き『《しぼめる花》の主題による変奏曲(D802)』、2つの弦楽四重奏曲『イ短調 <ロザムンデ>(D804)』『ニ短調<死と乙女>(D810)』が作られている。また『ピアノと過去数年の苦難は晩年のシューベルトの人生を俯瞰したとき、重要な出来事が3つみられる。一つ目は1826年、新しい交響曲を1827年に、シューベルトは『1827年3月26日、ベートーヴェンが死去し、シューベルトは葬儀に参列した(ウィーン市民2万人の大葬列の中の一人)。その後、友人たちと酒場に行き、「この中でもっとも早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとった。このとき友人たちは一様に大変不吉な感じを覚えたという最晩年の1828年、『ミサ曲変ホ長調(D950)』、同じ変ホ長調の『タントゥム・エルゴ(D962)』、『弦楽五重奏曲(D956)』、『ミサ曲ハ長調(D452)』のための2度目の『ベネディクトス(D961)』、最後の『3つのピアノ・ソナタ(D958、D959、D960)』、『その後、シューベルトは『冬の旅』などの校正を行っていたが、11月14日になると病状が悪化して高熱に浮かされるようになり、同月19日に兄フェルディナントの家で死去した。31歳没。フェルディナントが父へ宛てた手紙によると、死の前日に部屋の壁に手を当てて「これが、僕の最期だ」と呟いたのが最後の言葉だったという。 ドイチュ自身は目録の序文において、「D」を自分の名前の略記ではなくシューベルトの作品を示す記号と捉えてほしいと述べている。これに応え、このページでは「D.○○」とピリオドを打たず、「D○○」という表記を用いる。ただしドイツ語圏などではDと数字の間に半角スペースを入れ「D ○○」とするのが一般的である。通常「ドイチュ番号○○」などと読まれる。オーストリアなどではDeutsch-Verzeichnisという読み方のとおり、「DV ○○」と表記されることもある(シューベルトは現在楽譜が残っているものだけで14曲の交響曲の作曲を試みている。そのうち有名な「未完成」も含め6曲が未完成に終わっている。よく演奏されるのは、ロ短調交響曲(D759)、通称「未完成」と、最後の完成された交響曲である大ハ長調交響曲(D944)、通称「ザ・グレート」(「ザ・グレイト」)である。それ以外では第5番(D485)も親しまれている。 一時はピアノ・デュオ曲『グラン・デュオ(D812)』がD849の原曲ではないかと言われ、ヴァイオリニストのその後、楽器編成は D944とまったく同じであり(『ニ長調D936A』には最後の交響曲は自筆譜のままでは完成しておらず、国際シューベルト協会(Internationale Schubert-Gesellschaft)は番号を附していないが、10番などとされる場合もある。
古い番号づけでは、完成された7曲に順に7番まで番号が振られた。そして「未完成」(D759)は、4楽章構成の交響曲としては未完だが2楽章は完成しており、非常に美しい旋律で多くの人に愛好されているため、8番の番号が振られた。