太宰治 人間失格 冒頭
『人間失格』は太宰治の作品の中で最もと言って良いくらい、有名な小説です。太宰治自らの人生を振り返った作品であり、内面をえぐり鋭い言葉で描写するこの小説は、読者の心を惹きつけます。必然的に記憶に残る名言も多く、この記事では『人間失格』の名言を紹介していきます。 私が初めて太宰に触れたのは、というより、文学に触れたのは、高校卒業の時であった。周りの文学少年達からいえば、かなり遅かったのは言うまでもない。それから、少しずつ、彼らに劣れり勝れり文学に、どぷりどぷりと浸かって行った。 なんてお洒落なイントロ書いてみました。柄じゃないのでやめますチョコブーです! 今回は、      私は、こころも十分に好きですが、 さらに、『自分は葉蔵よりはマシな人生だろう。がんばろ。』と言う形で人生に希望を与える書であります。 金の問題はなかなか出てこないんですね。生まれたときからの坊ちゃんが、世間にもまれながらも、Kという恩人であり先生をたまたま見つけて、その人生に浸っていく話であり、矢張り   その後さらに別の女の家に逃げ込んで、その家も何も言わずに出て、バーに通い他の女をひっかけて、酒中毒、煙草中毒、薬物中毒と少しずつひどくなっていく。最後には、何も考えることができなくなってしまうという作品です。 私は、この生活よりは、ましな生き方ができている。そう思えませんか?   「何を言いたいのか分からない。」「ただの屑の甘ったれの話。」「くどい。」「だらだら段落なく長い箇所が目立って途中でやめてしまった。」そういう意見の人もかなり多く見受けられますが、それはすべて、太宰の筆のスタイルなのです。彼は、文筆の師として、「黒い雨」や「太宰の文体にも、この共通点があるのではないでしょうか。 さらに、太宰は、外国文学の日本語訳をかなり読んでいて好きな外国文学作家の中に、そう。彼の文体は、簡単な文で、分かりやすく、しかしくどく長く、誰にでも分かる文章でありながら、どこか悲しいし自虐的。  私は、聖書を読んだことがありません。と言うより、聖書を買って、読んでみたのですが、なかなか面白く、しかしちょっと長すぎたため、聖書自体は、かなり面白い作品ですし、誰でも読めるように、逐一すべての漢字にはルビが振られています。だれだれの子がだれだれで…と言う記述が多すぎて、何とも言えず途中でめんどくさくなってしまいました。 しかしながら、太宰の聖書は、とされております。しかし両者の内容は、  と言う内容であり、  と言う感じなのです。 大庭葉蔵という人間が、裕福な家庭に生まれ、しかしながらその裕福さの中に、何か生き辛い感じをいだいていた。彼は幼いころから、女に囲まれて生きていたが、女ほど、分からないものはないと言って、女を阿諛して一生をつづった。葉蔵は人間生活の苦難を感じて、薬物や酒に逃げた。最後、葉蔵は完全に、精魂ない人間になってしまった。そしてバーのマダムは言った。葉蔵は、「神様みたいないい子」だったと。 ここで、葉蔵はキリストであるという構図にお気づきでしょうか。  大庭葉蔵という人間が、裕福な家庭に生まれ、しかしながらその裕福さの中に、何か生き辛い感じをいだいていた。彼は幼いころから、女に囲まれて生きていたが、女ほど、分からないものはないと言って、女を阿諛して一生をつづった。 ここで、葉蔵がキリストだとすると、作中の「女」とは、聖書の「  葉蔵は人間生活の苦難を感じて、薬物や酒に逃げた。最後、葉蔵は完全に、精魂ない人間になってしまった。 キリストは、国に追いやられ、最終的には十字架で処刑されてしまいます。  そしてバーのマダムは言った。葉蔵は、「神様みたいないい子」だったと。 ここで、キリストは三日後に生還します。太宰が  実は、太宰は、聖書を熟読しています。太宰は、一回目の情死に失敗してからと言うもの、聖書にかなり傾倒していたようです。 矢張り、心苦しい部分が、そうさせたのでしょう。  太宰の聖書とのかかわりを紐解いてみました!なんだかまた読みたくなってきました。 では!      そこまで深刻に本作『人間失格』を扱わなくてもいいんじゃないかなぁと個人的には思います。 『人間失格』の名言 『人間失格』には太宰治の有名な名言がいくつかあります。やはり一つは『人間失格』の冒頭の一文、 恥の多い生涯を送ってきました。 ごゆるりと。paisley2558さんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか? 『人間失格』は、1948年に雑誌『展望』で発表された太宰治の中編小説です。太宰が自殺をする1か月前に書き終えた作品です。実話ではなく創作ですが、太宰の実人生をなぞったような小説です。Kindle版は無料¥0で読むことができます。 『人間失格』は気楽に読む 私はこのブログをまだ『人間失格』を読んだことのない人のことを思いながら書いています。 最近は速読ブームです。 月に100冊読むと豪語している人もいるし、「小説を読んで感動する速読法」を売りにしてるサイトもあります。 (いとう・うじたか=1968年、千葉県生れ。明治大学文学部准教授。文芸評論家。2002年に「他者の在処」で群像新人文学賞〈評論部門〉を受賞) 人間、失格。ダザイ・オサム(1909-1948)青森県金木村(現・五所川原市金木町)生れ。本名は津島修治。東大仏文科中退。在学中、非合法運動に関係するが、脱落。酒場の女性と鎌倉の小動崎で心中をはかり、ひとり助かる。1935(昭和10)年、「逆行」が、第1回芥川賞の次席となり、翌年、第一創作集『晩年』を刊行。この頃、パビナール中毒に悩む。1939年、井伏鱒二の世話で石原美知子と結婚、平静をえて「富嶽百景」など多くの佳作を書く。戦後、『斜陽』などで流行作家となるが、『人間失格』を残し山崎富栄と玉川上水で入水自殺。2001/01/20太宰治/原作、仲代達矢/朗読3,300円2001/01/20太宰治/原作、仲代達矢/朗読3,300円2011/06/09古屋兎丸/著、太宰治/原案565円2010/02/09古屋兎丸/著、太宰治/原案565円2009/06/09古屋兎丸/著、太宰治/原案565円 中国さまざまな翻訳家が訳す日本語→中国語の文を比べてみました。3つの中国人翻訳者が同じ日本語の文を翻訳しています。1つは自称翻訳者のもの、あとの2つはプロの翻訳家、つまり本になって発売されているものです。どんな訳し方になっているのか見てみましょう。太宰治「人間失格」の中から第一の手記の有名な冒頭。 恥の多い生涯を送って来ました。  2.回首前尘,尽是可耻的过住。 3.我过的是一种充满耻辱的生活。 1番目の翻訳は素人のため、太宰治の文の意図が異なる部分が多くみられます。例えば「自分には、人間の生活というものが、見当がつかないのです」という文を「我对自己的人生是看不见希望的」と訳しています。この文だと「自分の人生に希望が見いだせない」という意味になってしまい、完全に太宰治の書いた意図とは異なっています。きっと日本語勉強中の中国人なのかな。太宰治を理解するのはとても難しい作業だと思います。なのでここからは2番目と3番目の翻訳から学びたいと思います。・无从捉摸(Wúcóng zhuōmō)/难以捉摸(Nányǐ zhuōmō)=予測不能、見当がつかない・如此深信不疑=そう信じて疑わない・跨越铁轨(Kuàyuè tiěguǐ)=線路をまたいで超える・最周到的服务=最も気が利いたサービス・扫兴(Sǎoxìng)=失望する・超凡脱俗(Chāofán tuōsú)=あか抜けた、特別な・俏皮(Qiàopí)=遊び心・俏皮游戏(Qiàopí yóuxì)=遊び心のある遊戯 この中で最も長い太宰治の文をどう訳しているのか一つずつ見てみましょう。・自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。2番目の翻訳:我在火车站的天桥爬上爬下,完全没察觉这是为了工人跨越铁路所建造,满心以为这是为了能让车站像国外的游乐场一样有趣新潮,而特别打造的设施。3番目の翻訳:我在火车站的天桥上爬上爬下,完全没有察觉到天桥的架设乃是便于人们跨越铁轨,相反认为,其复杂的结构,仅仅是为了把车站建成像外国的游乐场那样又过瘾又时髦的设施。2番目のほうがかなりコンパクトに、しかし意図を完璧にとらえて訳してあります。3番目のほうは長いが一単語も逃さず丁寧に訳してあります。たとえば2番目のほうには「複雑に(楽しく)」といった太宰の文は省略されていすが、3番目にはきっちりと「复杂的结构」と入っています。また「ハイカラ」という単語を2番目は「新潮」と一単語でバチっと決めているのに対し、3番目は少しくだいて「又过瘾又时髦」と説明的に訳してあります。でもどちらも素晴らしい翻訳ですよね。もう一つの長い文。・ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん2番目:对我来说,在天桥里上上下下,是一项特别的游戏,而且它算是铁路公司设最周到的服务之一。日后我发现那不过是实用性的阶梯,纯粹旅客跨越铁路只用,登时大感扫兴。3番目:沿着天桥上上下下,这在我看来,毋宁说是一种超凡脱俗的俏皮游戏,甚至我认为,它是铁路的种种服务中最善解人意的一种。尔后,当我发现它不过是为了方便乘客跨越铁轨而架设的极其实用性的阶梯时,不由得大为扫兴。こちらも2番目の文のほうが相当コンパクト。日本語は一文でまとまっていますが、中国語訳はどちらも同じ場所で2文に分けられています。1.ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん2.のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。という具合に。二つの文の大きな違いは単語の長さ。また、最後の「ただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して」の部分で2番目の訳は「那只不过(ただ~に過ぎない)」という文法を使っているのに対し、3番目は「不过是为了~而」というやや長い文法を使っています。どちらもとても分かりやすいですが、個人的には2番目のコンパクトな文のほうが好きかな。分かりやすくて。3番目のほうが文法も少し複雑なものを使っていて長いので。たとえば「毋宁」とか。また人間失格の中で気に入ってる文を2つの翻訳から比較してみようと思います。