ドラフト1位指名をされ、 メジャー球団からも獲得を熱望. 公開日 : 今回は歴代ののご紹介!1965年からはや50年以上の歴史を誇る日本プロ野球のドラフト会議。プロの球団から指名されるだけでも名誉なことですが、賛否両論あるものの、やはりドラフトの魅力の一つといえば、複数球団が一人の選手を指名できること。複数の球団から競合球団指名を受けた、なんていうのはその後のプロ野球ファンの語り草にもなりますよね。今回はその長い歴史を誇るプロ野球ドラフト会議に中で、最も人気を集めた選手をランキングします!あの有名選手や、あれ?だれだっけ?(笑)など、プロでは活躍が出来なかった懐かしいあの選手にもピックアップ!それではご覧ください!目次史上最多8球団から指名を受けた「トルネード」でおなじみ野茂英雄投手。高校当時は無名な選手でしたが、社会人・新日本製鐵堺で身につけたフォークボールで一躍一流選手に仲間入りします。当時1988年のソウルオリンピックの日本大乗でも活躍し、古田敦也ともバッテリーを組んだのは有名です。名実ともにアマチュアNo.1投手が、これだけの球団が指名をしたのは、「12球団どこでもOK」という意思を前もって示していたからだとか。そして幸運にもあたりクジを引き当てたのは近鉄バファローズ。クジを引いたのは亡くなってしまった仰木彬当時の監督。入団後、ルーキーイヤーから最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手4冠を達成。そしてベストナイン、新人王、沢村賞、MVPとタイトルを独占の大活躍。そして日本人大リーガーの先駆けとなり、トルネード旋風を巻き起こします。イチローや松井、松坂やダルビッシュなど、数多くの日本人選手が大リーガーとして活躍することが出来ているのも、野茂の存在があったからでしょう。野茂さんが8球団から指名された翌年も、小池投手が最多球団タイの記録となりました。しかし、野茂と違うところが、ロッテからの入団を拒否したところ。小池本人としては唯一行きなくなかった球団だったそうです。当時のロッテは弱くて、人気もなくまた川崎球場にはお客さんも少なく常に閑古鳥が鳴く状態でした。実は千葉に移転、マリンスタジアムを本拠地としてイメージアップを図るきっかけになったのはこの「小池事件」が発端だったそうです。1995年のドラフトでは、歴代1位となる高校生選手に対する7球団1位指名を受けます。しかしドラフト前に巨人、中日の指名以外は日本生命入りを表明していた通りプロ入りを拒否し社会人の道を選択。PL学園のスラッガー、福留選手が第3位にランキングの7球団指名です。当時の意中の球団は巨人か中日。しかし、そのクジを射止めたのは近鉄でした。当時の監督佐々木恭介が、クジを引き当てたのとどうじに「ヨッシャー」と叫んだのは有名です。また佐々木さんがこの日に勝負の「赤いフンドシ」を着用していたというのは語り草です。残念ながら、福留は入団を拒否。佐々木監督は勝負に勝って、試合に負けた状態となってしまいました。高校通算歴代最多となる111本塁打を記録した清宮幸太郎選手。ドラフト前から清宮選手一色で染まっていた2017年ドラフト。7球団が競合してクジ運の強い日本ハムが獲得。時代の流れでもありますが、メジャーにいった大谷選手は例外としても、高卒からドラフト1位で競合しても入団拒否というのはほぼほぼなくなった印象もありますね。東京六大学野球史に残る数々の記録を打ち立てた岡田選手には6球団が競合。プロ入り表明時は母親が一人っ子だった岡田選手が関西に戻ることを希望したこともあり、在阪球団を希望。その中でも阪神を一番の希望球団に挙げました。当時低迷にあえぐ、阪神復活の切り札として指名されたのが、早稲田大学の強打者の岡田彰布さんでした。岡田彰布さんの家族が阪神の選手達と親交があったため阪神は希望球団だったということ。そして1/6の倍率を潜り抜け、みごと阪神がクジを引き当てます。そしてのちの掛布・バース・とクリーンナップを形成し、阪神を日本一へと導くのです。子供の頃からのファンである巨人か父親がファンであった阪神入りを熱望し、両軍が交渉権を逃した場合は社会人の日本生命へ進むことを表明していました。しかし巨人には指名されず、交渉権を獲得したのは西武。ドラフト会議直後の記者会見では、失意で涙を見せましたが、母親のアドバイスで西武入りを決断。桑田とのKKコンビで甲子園を沸かせた清原。言わずと知れた球界の番長ですが、当時。巨人入団を熱望していました。しかし巨人が指名したのは、当時早稲田大学進学を表明していた、KKコンビの相棒であり親友の桑田。このドラフト会議で清原は「悔し涙」を流しますが、入団から2年後の巨人との日本シリーズで勝利の直前に「うれし涙」を流すことになります。東洋大学時代は、「平成の鉄腕」と呼ばれ、アマチュアNo1投手の称号にふさわしく堂々の6球団指名を受けます。幸運にもそのクジを引き当てたのはソフトバンクホークスでしたが、デビュー戦で無四球完封勝利を成し遂げて以後は、思ったような活躍を見せることができませんでした。入団前には大学通算62試合登板で33勝(11敗)、防御率2.13、410奪三振、そして当時のリーグ新記録となる14連勝も記録した怪腕でしたが、プロではその実力を出し切れませんでした。ドラフト会議前には、メジャーリーグ挑戦の噂もありましたが、一転その気持ちを封印。日本球界入りを表明。6球団から指名を受け、西武がその幸運を引き当てます。2017年にエースとして本格覚醒。前年4位からの2位Aクラス入りに大きく貢献します。高卒ルーキーとして苦労した時代もありましたが、見事球界を代表する左腕に成長しましたね!念願のメジャーリーグ挑戦は近そうです。早稲田大学からこの年は3名のドラフト1位を出すという快挙を成し遂げました。斎藤佑樹や福井優也、早稲田トリオの一人、ハンカチ世代でも、注目度は一番で、その斎藤よりも多い、6球団からの指名を受けました。現在はリリーフとして活躍していますが、まだその本領を発揮しているとはいえないですね。デビュー戦でいきなりノーヒットノーランを達成したゴールデンルーキー。しかし、その快挙が活躍のピークで、それ以降は鳴かず飛ばずとなりました。この年の日本ハムの外れ1位が西崎幸広。同期入団が明暗を分けることになっていますね。2007年の高校生ドラフトの目玉「高校ビッグ3」の一人だった由規選手。よく泣くことで有名で、ドラフト指名後の会見でもプロ入り前の激励会でも涙を見せ「泣き虫王子」と呼ばれていましたね。この年のドラフトでは中田翔、唐川侑己の3人が高校BIG3といわれ、この3人の中でも最も多い指名を受けました。元祖160キロ男も育成契約になったりと何かと苦労人ですが、支配下選手登録に復帰して一線級での活躍がまだまだみたいですね。当時北京オリンピック予選に星野仙一代表監督に見出され、日本代表メンバーにプロ入り前、唯一のアマチュア選手として選出された投手です。本大会に出場することはありませんでしたが、大場翔太、加藤幹典、とともに大学BIG3として期待されての5球団指名。しかし、2016年にひっそりと引退。通算11勝とドラフト1位投手としてはさみしい結果になりました。甲子園を沸かせた松井祐樹。 10連続奪三振、1試合22奪三振の離れ技を成し遂げました。その原動力になったのは魔球・スライダー。プロでも通用するかどうか疑問視する声もありましたが、入団二年目にリリーフ投手に転向。今ではリーグを代表するクローザーとして活躍していますね。競合した球団:巨人 東映 阪急 阪神「江夏の21球」で有名な江夏投手。のちに優勝請負人として名を馳せますが、高校時代から将来を嘱望される投手でした。指名権を獲得した阪神からは、背番号「1」「13」「28」のどれを選んでもいいという好待遇がその表れでしょう。しかし、1番は当時のライバル投手(鈴木啓示)が付けているという理由で選らばず、そして13番なんとなく縁起が悪そうという、消去法で28番に決めたそうです。なんとも江夏らしい理由ですね。ドラフト史上もっとも有名な事件=空白の一日を利用した巨人との電撃契約の翌日、行われたドラフト会議で阪神が指名権を獲得します。この時のドラフトには巨人は先の空白の一日を利用した契約を無効としたセ・リーグ事務局の決定を不服としてボイコットしています。のちに指名権を獲得した阪神のエース・小林繁とのトレードが成立するのですが、わざわざクジとはいえ指名権を自ら放棄した巨人とその他の球団の間には何か、江川のトレードについて密約があったのではないか、と疑いたくなりますね。ちなみにこのドラフトの前にも、高校時代、大学時代と2回のドラフトを経験、それぞれ巨人以外の球団が指名権を獲得したことから、入団拒否をしています。ドラフト会議に3回経験しており非常に珍しいケースですね。1976年のドラフトで一度はロッテから指名を受けながら、入団を拒否。その2年後の1978年のドラフトで西武ライオンズに入団します。入団後は先発として活躍が期待されていましたが、1982年にリリーフに転向。1983年に最優秀救援投手(34セーブ)をマークしますが、故障に苦しみ1986年に引退します。巨人の栄光の四番打者として、引退後は巨人監督、侍ジャパンの監督としても活躍した「若大将」当時の巨人に入団が決定された際には、前年監督を退任していた長嶋茂雄監督から、自身の背番号3を譲りたい、というくらい期待されていました。やはり、球界の超大スターが巨人からいなくなってしまった翌年ですからね。当時の原選手にかかった期待はかなりのものだったでしょう。結果的に背番号は「8」に決定しますがそれもまた、長嶋に匹敵するくらいの巨人のおなじみにナンバーになるのです。:通算51勝。野村ヤクルトの黄金期を支えた右腕はドラフト1位で1983年に入団。動機に現日本ハム監督の栗山、ブンブン丸で有名な池山がいます。入団後、すぐに開幕投手として起用されました。ルーキーイヤーから開幕を担うなんて、チームのエースとして期待されていた証拠ですね。通算勝利数は特筆すべき数字ではありませんが、187センチの長身は神宮球場のマウンドを何度も沸かせました。ダイエー時代・低迷していたホークスを支えた鷹のエース。駒澤大学のエースとして東都大学リーグでMVP、最優秀投手、ベストナインなどの肩書きを引っさげて、ドラフトでは1991年のドラフトでは最多となる4球団から指名。抽選の結果、ダイエーホークスに入団します。当時のダイエーはまだ福岡ドームではなく、平和台球場を本拠地としていましたが、弱小球団でした。そのような中でも若田部は奮闘し在籍11年で計4度の二桁勝利を達成。横浜に移籍後、惜しまれつつ引退してしまいますが、その娘の若田部遥さんはアイドルHKT48の一員として、何度も福岡のマウンドの始球式に登場。不敗神話があったことから、勝利の女神と崇められています。ご存知「ゴジラ」松井。甲子園5打席連続敬遠の伝説を引っさげて、ドラフト会議では4球団指名を受けます。その後の実績に比べると少ない指名数のような気もしますが、こねるようなスイングが木製バットで通用するかという一部評価の低さが原因と言われています。しかし、その指名権を引き当てたミスタージャイアンツ長嶋茂雄監督とともに「4番1,000日計画」と銘打って、連日連夜試合後に二人で打撃練習を重ねたことはあまりにも有名です。メジャーでも大砲選手として名を残したのは凄いですね甲子園でも活躍し、高校野球で旋風を巻き起こした大型左腕。甲子園で勝利者インタビューで「次の試合は完全試合をします!」などのビッグマウスでも有名でした。鳴り物入りで4球団から指名を受けましたが、プロ通算実働3年間で未勝利。有言実行という言葉もありますが、川口投手は不言実行の方が結果を出せたかもしれませんね。松坂大輔投手が大活躍した3年後、またしても甲子園に新たな怪物が現れました。寺原は当時の甲子園最速記録(154キロ)を塗り替え、瞬く間にスターダムにのし上がりました。ドラフトでも4球団競合の末、ダイエーが指名権を獲得。その後は数球団を渡り歩き、ホークスに復帰。当時のストレートは鳴りを潜めましたが、ベテランらしい投球でチームを支えています。夏の甲子園2連覇、最後の夏ではあのハンカチ王子から自身が三振に倒れて敗れましたが、それでも準優勝。田中将大の同い年には若手のホープが多く、松坂大輔の「松坂世代」と並び、「ハンカチ世代」なんて呼ばれましたが、今の活躍、躍進振りを考えると、「マー君世代」と呼ぶ方が正しいでしょう。入団した楽天では、メジャー移籍最後の2013年は24勝無敗の不滅の大記録を樹立。日本シリーズ第7戦、前日の160球完投したにもかかわらずリリーフ登板。見事チームを勝利に導いたのはまさに伝説です。現在の結果を考えると、4球団指名はむしろ少なすぎるほどすね。高校時代は150キロ近いストレートを投げ、甲子園のマウンドにも立った中田翔。ドラフトでは4球団から指名を受けますが、日本ハムに指名を受け、現在は不動の4番として活躍。当時のドラフトでは、ヤクルトの佐藤由規、ロッテの唐川侑己と並んで、高校BIG3と呼ばれました。3人の中では「出世頭」と言えるのではないでしょうか。早稲田実業時代は、田中将大とは甲子園で決勝戦延長再試合を経ての優勝、進学した早稲田大学でも6大学リーグで活躍。先にプロで結果を残していたライバル田中将大から遅れて4年、プロの世界に入団しますが、もはや輝きは失われていました。田中マー君との差は天と地ほど離れてしまっていますが、「ハンカチ王子」復活はなるのでしょうか?当時大阪桐蔭のエースとして、史上7校目の春夏連覇を達成した、怪腕。しかも最後の夏の甲子園では準決勝、決勝で連続完封を成し遂げたレジェンド振り。当時は同じ年のドラフト対象となる大谷翔平は日本ハムのみの指名と、評価は藤浪投手の方が上な部分はありましたが、今では少し差をつけられているイメージも。。。ライバルと再度勝負する舞台は「メジャーリーグ」となるのでしょうか。今や日本ハムのエースとして活躍している有原投手。ドラフト当時もやはり人気で4球団からの指名を受けています!甲子園にも出場、6大学でも最優秀防御率、ベストナインなど当時の大学ナンバーワン投手の肩書きを引っさげての日本ハム入団。まだまだその実力を完全に発揮できていないので、日本ハムを優勝に導く大黒柱としてさらに活躍してほしいですね。 ここまで歴代のドラフト指名数ランキングについてまとめてみました。ドラフトの魅力の一つでもある競合抽選。その球団が多くなればなるほど楽しみは高まりますよね。逆指名制度は廃止されましたが、今の選手は昔の選手ほど特定の球団を希望してる選手は減ってきたように思えますが、これは時代の流れかもしれません。当時の野茂投手、小池投手の8球団指名記録を破る選手はなかなか現れませんが、今後のスター誕生をファンとしてさらに見守りたいですね。これからのドラフト会議にも注目していきたいと思います!タグ : 「「