コリント人への手紙 第一 第10章13節

だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。 それとも、わたしたちは主のねたみを起そうとするのか。わたしたちは、主よりも強いのだろうか。 わたしの批判者たちに対する弁明は、これである。 実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。 しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい。 このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。 しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。 だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。 それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。 まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。 おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。 あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。 わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。 今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、 兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、 だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。 なぜなら、男が女から出たのではなく、女が男から出たのだからである。 ただ、各自は、主から賜わった分に応じ、また神に召されたままの状態にしたがって、歩むべきである。これが、すべての教会に対してわたしの命じるところである。 すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。 もしその言葉の意味がわからないなら、語っている人にとっては、わたしは異国人であり、語っている人も、わたしにとっては異国人である。

しかし教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちをも教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって語る方が願わしい。 良心と言ったのは、自分の良心ではなく、他人の良心のことである。なぜなら、わたしの自由が、どうして他人の良心によって左右されることがあろうか。 各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。 すなわち、ある人は「わたしはパウロに」と言い、ほかの人は「わたしはアポロに」と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。 わたしは、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みを思って、いつも神に感謝している。 しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。 あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。 そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、 というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。 あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。 そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。 そのほかの人々に言う。これを言うのは、主ではなく、わたしである。ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。 受信ボックスか迷惑メールフォルダをご確認いただき、「承認のアドレス」をクリックして購読手続きを完了してください。 それと同様に、もしあなたがたが異言ではっきりしない言葉を語れば、どうしてその語ることがわかるだろうか。それでは、空にむかって語っていることになる。 ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、 わたしがこう言うのは、あなたがたの利益になると思うからであって、あなたがたを束縛するためではない。そうではなく、正しい生活を送って、余念なく主に奉仕させたいからである。 しかし、席にいる他の者が啓示を受けた場合には、初めの者は黙るがよい。 わたしは実際、あなたがたがひとり残らず異言を語ることを望むが、特に預言をしてもらいたい。教会の徳を高めるように異言を解かない限り、異言を語る者よりも、預言をする者の方がまさっている。 結婚している男子はこの世のことに心をくばって、どうかして妻を喜ばせようとして、その心が分れるのである。 わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。 それとも、神の言はあなたがたのところから出たのか。あるいは、あなたがただけにきたのか。 しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。 霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。 わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。
福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。 またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。 すべての兄弟たちから、よろしく。あなたがたも互に、きよい接吻をもってあいさつをかわしなさい。 しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない、ということであった。 食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。 すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。 わたしは、人間の考えでこう言うのではない。律法もまた、そのように言っているではないか。 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。 未婚の婦人とおとめとは、主のことに心をくばって、身も魂もきよくなろうとするが、結婚した婦人はこの世のことに心をくばって、どうかして夫を喜ばせようとする。 アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。 それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。
目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。 神と人とのしもべ、地の塩港南キリスト教会牧師 そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、 聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。 わたしの愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがた一同と共にあるように。 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。 しかし預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである。 わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。 兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。 その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。 日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。 いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。 すべて市場で売られている物は、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。 わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。 わたしは、あなたがたのうちのだれよりも多く異言が語れることを、神に感謝する。 しかし五旬節までは、エペソに滞在するつもりだ。というのは、有力な働きの門がわたしのために大きく開かれているし、 あなたがたはキリストにあって、すべてのことに、すなわち、すべての言葉にもすべての知識にも恵まれ、 夫は妻にその分を果し、妻も同様に夫にその分を果すべきである。

わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。 もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。

わたしはあなたがたが、思い煩わないようにしていてほしい。未婚の男子は主のことに心をくばって、どうかして主を喜ばせようとするが、